日本でも根強い人気を誇る三国志!!沢山の作品やゲームを見てきましたが、今回は三国志の魅力を語りたいと思います。
少しでも興味が沸けば
youtubeの「スリーキングダム」を
見て下さいね♪
Table of Contents
三国志とは?
まずはキングダムで有名な秦!
秦の始皇帝って聞いた事ありませんか?教科書でもよく聞く
秦の始皇帝は、
現在映画や漫画で有名になった「キングダム」の嬴政 (えいせい)です。
秦の始皇帝が亡くなった後
2代目皇帝「胡亥」が後を継ぎます!
しかし、政治が全く分からず、国は困窮し、臣下(教育係)の趙高の傀儡となってしまいます。
いわゆる、傀儡政権(かいらいせいけん)です。
傀儡政権(かいらいせいけん)とは呼んで字の如く、傀儡!一番偉い人がいるにも関わらず、臣下(部下)がなんでも取り仕切ることです。実際に操られて政治を行う事です。
その後、「胡亥」は酒や女に溺れ、自殺に追い込まれます。
阿房宮は攻め込んできた項羽軍(敵)によって焼き払われ、その火は3ヶ月間鎮火することが無かったと言います。このような人々の怨嗟の元となり、国が疲弊していく原因ともなった阿房宮が転じて、愚かなさま、行動を「阿呆」と言うようになりました。
また、権力者が自身の権威を盾に、「鹿」を「馬」と言わせるような矛盾を無理やり押し通すことを、転じて道理・常識からはずれていることを「馬鹿」と言うようになりました。(胡亥と趙高のやりとりで生まれた言われています)
このように、秦の国が衰退していくのを見かねた者達が、秦を滅ぼそうとそれぞれ
旗揚げをしていきます。
その代表が
項羽と劉邦です。
まだ、三国志には突入しません。
秦を滅ぼし建国するぞ!!!
衰退し疲弊していく、国は国民に対して全く恩恵を施しません><
そのため、秦の治世はひどく、民は困窮します。
今の時代のように全てが法で裁かれたりしない上に、民主主義では無いため
国の偉い方に逆らう事が出来ませんでした。
そのため、皆が秦という国を潰そうと名乗りを上げていきます。
しかし、王になりたい人間は、どこにでも沢山いる。
その中でも項羽と劉邦の戦いが主になっていきます。
項羽
武芸に秀でて、戦は負け知らずで名家の家柄でかなりのハイスペックの持ち主です。更に、兵も勇猛果敢で強い項羽に憧れている者も多かったと思います。しかし、弱点として傲慢な性格だったようです。自分にあまりに自信があり過ぎて、人が言った事を素直に聞けない方だったみたいです。優秀な軍師(范増)すら、上手く使えずに傲慢な戦を繰り返し、圧倒的に勝っていたにも関わらず最終的に負けてしまいます。項羽の敗北する時のことが「四面楚歌」の由来になっています。
「四面楚歌」になった故事(昔の出来事)は、中国の「楚(そ)項羽軍」と「漢(かん)劉邦軍」が戦争をしたときのことを伝えています。
当時、劣勢であった「楚」の国の王「項羽(こうう)」は「漢」の兵士に包囲されます。そして「漢」の兵士たちが「楚」の国の国家を歌っている声を聴きました。この歌声を聞いた「項羽」は、自分の国である「楚」の兵士たちが「漢」の国に寝返ったのだと認識し絶望したといいます。
これが「四面楚歌」の由来です。自分の周囲(四面)を楚の国の歌が取り囲んでいて、孤立した状態をそのまま言葉にしています。「孤立している」「逃げ場がない」という意味を持ちます。
劉邦
<漢>を作った偉大な皇帝!
だが、身分が高い訳でも無く、どちらかと言えばその日暮らしで、チンピラのような男でした。しかし、人柄が良く、なぜか?人に好かれる人物でした。それ故に、優秀な人材を使いこなし、見事に項羽を撃破し、統一を果たしました。日本での豊臣秀吉ですね( *´艸`)
劉邦はこんな言葉を残しています。
劉邦は
「貴公らは一を知って二を知らない。わしは張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することは出来ない。わしは蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることは出来ない。わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことは出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という3人の英傑を見事に使いこなすことが出来た。反対に項羽は范増1人すら使いこなすことが出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ」
簡単に言えば
「自分は張良(軍師)のような作戦も考えれないし、蕭何のように、補給や兵の徴収(内政)は出来ないし、韓信のように上手に戦えないけど、皆の話を聞いて、皆の力で勝ったよ!!!それに比べて項羽は范増すら信じなかったから勝てなかったんだよ!」
3人の素晴らしい人材を使いこなした事で勝利を得られたという話なので素敵ですね♪
私は、三国志も好きですが、この項羽と劉邦の話が一番好きです。
劉邦の死
まーしかしこの劉邦が名君だったのは、少しの間だけでした。
それでも、劉邦は
人を見抜く洞察力
人に戦を任せる度量(一歩間違えば全て失う)
人に愛される魅力
など、名君であることに間違いはありません。
確かに、戦で逃げ出して、荷馬車のスピード上げるために、子供を何度も投げ捨てて、軽くしようとしたりしますがw
「漢」を建国した後、劉邦は、変わってしまいます、、、
何が変わったかと言うと、、、
「人を疑うようになった」「猜疑心を抱くようになった」
昔は何も持っていないが故に失う物が無かった劉邦ですが
地位や名誉を築き失うのを恐れるようになったのです。
最も偉い立場になると、自分の地位を脅かす可能性の者がいれば、怖いものです。
実際、若い内は資産が無いため、失う物が無いから借金してでも、起業して失敗したら自己破産なんて考える方もいます。
劉邦自体も(持たざる者)だったからこそ、人を信頼できたのだろうと思います。
いざ、自分が(地位)(名声)(財産)などを手に入れてしまった時、その現状を守りたくなるのが普通です。
劉邦は自分の家臣の中でも、軍事に優れた人材を何人も粛清してしまいます。そのため、次は自分の番かも!と思う、家臣が反乱を起こしたりと何かと問題が起こっていきます。劉邦を信頼していた幼馴染も疑われ、逃げざるえない状況になったりする始末でした、、、
そして、劉邦が死ぬ間際に残した言葉は
「劉のつく姓以外は王にするな」と言い残します。
劉邦亡き後の漢
その後、劉邦が死去し、更に自体は悪化します。
劉邦の妻「呂智」がとんでもないのです。
中国3(4)大悪女に名を連ねる者なのです。
まず
自分の子供の立場を絶対的にするために、劉邦親族の粛清、迫害を行う
自分の呂一族から帝を出そうと画策する
特に劉邦に気に入られていた愛人の手足を切断し、人豚と言わせて便所に投げ捨てた。更に目はくりぬかれ、耳には鉛を入れられるという酷い状況、、、
恐ろしいです(; ・`д・´)
あまりにも、酷い有り様で、呂智亡き後は一族みな殺しにされています><
このような状況でしたが、
五代目皇帝「劉恒」(文帝)から息を吹き返し
なんと
その後、漢は
400年も続きます。
三国志はここから!
項羽と劉邦が好きすぎて、長々話しましたが、ここからが三国志です。
実質、三国時代は有力な皇帝が並び立つまで全然三国志ではありませんw
漢は400年続きましたが、前漢・後漢に分かれます。
三国志は、漢が滅んで行く過程を指します。
大まかな説明をすると
大まかな三国志
①「黄巾の乱」
張角率いる黄色いバンダナが目印の人達
指導者は「張角」
略奪とかしまくりの最悪集団、、、、イメージ
黄巾の乱は諸侯達の力で鎮圧
曹操や孫堅などの
有名な者たちが功績を挙げますが
張角は病死した後も
各地での反乱は簡単に収まらなったそうです。
②反董卓連合軍
私利私欲をむさぼる者!「董卓」名言は「酒池肉林」w
董卓は朝廷(帝)を守る代わりに政治を仕切りますね!!という感じで君臨します。要はまた傀儡政権状態になります。更に董卓には「呂布」という義理の息子がいます。この「呂布」は三国志では最強と言われています。三国志は正史と演義で違いがありますが、どちらの記述でも呂布の強さは間違いないようです。
呂布がいるため、中々、手が出せないため、「反董卓連合軍」を結成します。
この連合軍に参加した者達が、後の三国志に大きく影響を及ぼします。
特に後から(劉備)(孫堅)(曹操)は大活躍なので覚えて下さい
この連合軍は一時的に勝利を収めましたが、連合軍自体は、抜け駆けや物資の補給をしないなどバラバラで空中分解を起こしますw
この時代は「食料が最も重要で兵糧と言います。兵糧が多いとそれだけで人を多く雇えます」このような理由から連合軍では食料を送るのを渋ってしまいます。
董卓は戦況が不利になったため、洛陽の都を焼き払い、長安へ移る!
日本で例えると東京が危機的状態だから、首都を大阪に移そうみたいな感じです。
しかし、「反董卓連合軍」は正史と演義では全く違います><
董卓側の猛将「華雄」を打ち取ったのは「孫堅」(正史)
董卓側の猛将「華雄」を打ち取ったのは「関羽」(演義)
呂布と「劉備」「関羽」「張飛」の3対1での決闘(演義のみ)
そもそも、正史では「劉備」「関羽」「張飛」の3兄弟は参加していない!
でも正史が正しいとは限りませんので楽しいですよね^^
ちなみに、長安に移った後も董卓は暴政の限りを尽くします。そこで董卓の事を憎んでいた男で朝廷(帝)に仕えていた「王允」が董卓の義理の息子「呂布」を丸め込み暗殺を行います。見事暗殺に成功しましたが、董卓の後を狙う李傕・郭汜らに引き継がれた。李傕・郭汜らは王允・呂布を破り、帝を手中に収め、後漢政府の事実上の統率者となったが、暴政を布いた。
董卓亡き後も同じような事を繰り返したという事です。
呂布を使って行った暗殺は美女連環の計と言います。
美女連環の計は「貂蝉」という美女を使い、董卓と呂布、両方にアプローチを掛けます。 董卓には 「私は董卓様を愛していますが呂布将軍が強引に迫ってくるのです」と言います。 呂布には 「私は呂布様と一緒になりたいのですが董卓様には逆らえません」といった形で仲違いさせます。
③曹操の活躍で帝を取り戻す
曹操は兗州牧となり、兗州で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を自分の配下に納めて、急激に勢力を拡大しました。曹操の父は徐州の者に殺されたため、弔い合戦を口実に徐州攻めを開始した、、、その隙をつき、呂布が兗州を奪おうと挙兵、しかし、曹操の有能な部下は守り抜く!呂布はその後、徐州に逃げて、その時、陶謙に徐州を任せられていた劉備に身を寄せる!しかし、恩を仇で返す呂布!劉備を攻撃して裏切る!劉備は曹操の元に逃げる。その後、曹操は帝を保護します。(李傕・郭汜は内乱で滅びます)保護した後は許都(曹操の本拠地)で過ごさせます。呂布も曹操と劉備の連合軍で滅ぼします。劉備はまた流浪の身になる、、、、、
次からは④荊州の奪い合い
⑤蜀攻略と弔い合戦
⑥北伐
⑦蜀の破滅→魏の崩壊→呉の破滅
あまりに長くなったので、次の記事に回します^^
荊州 奪還編
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