前回、自分の好きな事を話し過ぎて5000文字過ぎてたので、②でお送りしますw
Table of Contents
三国時代の幕開けが近い
④荊州の奪い合い!!
流浪の身になった劉備は、荊州に身を寄せる。荊州では跡目争いが起こっていて状況は良く無かった。それに曹操は更に袁紹(反董卓連合軍の最高司令官)を打ち破り、もはや敵なしの状態になっていた。そんな、曹操は荊州の土地を奪おうと兵を差し向ける。荊州は結局、次男が継いだが、即降伏し曹操の土地となり、曹操は直ぐに劉備を攻撃しようとしましたが、劉備は即撤退し、被害は少なかった。またも、流浪の身になり、今度は南の孫権に同盟を持ちかける。孫権も喉から手が出るほどに荊州が欲しかったのである。
皆が荊州を欲しがる理由は、どこでも攻撃出来る場所なのです。
兵糧を運んだりするにも最適な場所です。非常に重要な場所なのです。
ここで、荊州の奪い合いが始まります。孫劉連盟を結成し曹操を倒そうと画策します。
それが映画の題材になった「赤壁の戦い」です(レッドクリフ)。
見事な火計で曹操軍を蹴散らしました!!その後、荊州刺史の跡目争いで負けていた。劉琦を押し上げて、荊州刺史にして、劉備も始めて基盤を手に入れることが出来た。(荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡)
敗北した曹操はなんとか逃げ延びました。
演義では劉備・張飛・関羽の3兄弟がバラバラになった際に手厚く迎え入れた事により関羽への恩義があり、その事を持ち出され関羽が曹操を逃がしている。
敗北した曹操は富国強兵を行い、軍事力を整える!
孫劉連盟は打倒曹操で結ばれた同盟だが、実際は呉の方が兵も兵糧も多く消費しているので、荊州は呉の物だと主張します。普通に考えて投資が多い方が利益を多く貰うのは当然ですよね。劉備は、基盤が無いため、お貸し頂きたいと述べてしばらく荊州を借りる事にしました。
劉備は地図の左に位置する益州を手に入れます。益州を手に入れましたが、呉の孫権から催促が来ます。益州を手に入れたなら、「荊州返して下さい」と言います!
そういう約束だから、返すのが当然ですが、劉備は拒みます。「涼州まで取ってから返します」と言います。それに対して呉の孫権は怒り、役人を派遣しますが、追い返されます。それに激怒した孫権は、今度は兵を派遣して全面戦争に危うくなりかけました^^;
演義でも相当呉の孫権は寛容に対応しています。
関羽が荊州の防衛の担当でしたが、関羽の娘と婚姻関係を結び
より強固な連盟にしようとしましたが、関羽の傲慢な性格で
孫権に対し「犬の子に虎の子はやれぬ!」と言います。
言われた孫権の使者は「ポカーン( ゚д゚)ポカーン」でしょうねw
1将軍が一国を治める王に対しての返答じゃないですよね^^;
⑤三国の形がなる!
ここでようやく、魏・呉・蜀の形が出来上がりました。
魏は北方に位置し、兵や将兵は多いため、魏が一番強い状態です!
指導者は曹操!!優れた兵法家で尚且つ人材マニアで良いと思った人材には惜しまず猛アタックをします。女性は人妻を好むという記録も残っていますw
蜀は地図左側に位置する。荊州にいた時に有能な将軍などを集めたため、兵力もそこそこある。演義では諸葛亮が来たため、劉備は躍進したと書かれている。指導者は劉備!一応、漢の劉邦の玄孫になるらしいが、事実は分からない。演義では主人公の位置づけのため、脚色が多数加えられている。有能な配下が多い!劉備は武勇に優れた(関羽)(張飛)の義兄弟がいる!
呉は南部に位置する。孫氏三代の土地(孫堅→孫策→孫権)と基盤は強固である。水軍が強いが、地上の戦はあまり強くない。この時点で最も頼りになった周瑜が死んだため、後手に回っている感がある。
三国になって大きく変化する
⑥事件が起こる
劉備は蜀の地を得て、曻り調子に上がっていた。曹操の所有している漢中を攻め落としてしまいました。そして漢中王に名乗りを上げました!しかし、ここで事件が起きます。蜀の地を得る時に荊州の守りが薄くならないように、武勇に優れた義兄弟の関羽を荊州の守備に当たらしていました。しかし、関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、樊城・襄陽を包囲した(樊城の戦い)。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどでした。それに焦りを覚えた曹操は呉の孫権に書状を送ります。荊州を分け与えるのを条件に関羽を挟み撃ちにしようと!そしたら、孫権は兼ねてより恨んでいたため、これを機に関羽を攻めます!見事、捕縛し首をはねますが、劉備の恨みを買うのが怖くて、曹操に首を送ります。曹操は個人的に関羽が好きだったので、手厚く葬ってやりました。
弔い合戦!
病気で曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。これを聞いた劉備も対抗して221年に皇帝に即位、漢の後継者と称した(蜀(蜀漢)の創設)。 要は劉備は漢の子孫なので、皇帝を守りたかったが、力及ばずで、曹操の子供が皇帝になってしまったので、自分も王に名乗りを上げて対立しようとしたのです。
曹操は帝を傀儡にしていましたが、しっかりと衣食住も与えて何不自由なく過ごさせていました。曹丕は帝を廃止し、自分が王を名乗りました。
劉備は、義兄弟の関羽と荊州を失った悲しみと怒りで呉に戦争を起こします。劉備の部下はほとんど止めましたが、劉備は聞く耳を持ちません><なので不安に駆られながらの出兵になりました。更にもう一人の義兄弟の張飛はあまりに粗暴で兵士に乱暴ばかりするので、寝首をかかれ、殺されてしまいます。劉備の呉討伐の意志は更に増しました。最初、劉備軍は勢いがあり優勢でした。しかし、呉の大都督(陸遜)の策にハマり、大半の兵を失い、大敗北を喫してしまいます。白帝城で劉備は亡くなり、子供の劉禅が跡を継ぎました。良い意味で実権は諸葛亮が握っています。
⑧北伐
良い意味で諸葛亮が実権を握っているのは、劉備から諸葛亮は絶大な信頼があったからです。自分の息子は優れていないと思った劉備は、白帝城で「この子の補佐が望みなら頼む」「この子に器が無ければ先生が取って変わって漢を復興してくれ」と言い残しています。演義の内容かもしれませんが、非常に感動する話です。
諸葛亮はこの後北伐に力を入れます!北伐は北の魏を討つことです!
実際、この北伐は、非常に国力が疲弊します。国が疲弊する理由は荊州を通れないから遠回りになってしまうのです。兵糧を運ぶのも一苦労です><
なぜ?北伐したの?
理由は、20年は蜀の地は安泰でしょうが、20年後は無事ではないでしょう!と語っています。諸葛亮も50歳くらいのため、20年後は私はこの世を去っております。と言い、どうしても自分が生きている内に、魏の討伐を行いたかったのだと思います。
⑨魏・呉・蜀の行方
三国志と言われる所以は、1時代に皇帝は1人のはずだが、魏・呉・蜀それぞれが皇帝を名乗ってしまったからです。
北伐は7年間(5度)に渡り行われたそうです。しかし、決着はつかず、五丈原の戦いにて、蜀の軍師(丞相)諸葛亮が病欠で亡くなりました。
魏の司馬懿VS蜀の諸葛亮の決着は、諸葛亮の病欠で幕を閉じます。
しかし、北伐は姜維という者が引き続き行っていきますが、思うような成果は上げれずじまいでした。諸葛亮の凄い所は、北伐は国力の疲弊が凄まじいはずなのに、国が傾かなかった事だと私は、思います。どれだけの政治手腕があれば、そうなるのか?名軍師であったのだと思います。
<魏>のその後
この時の戦で、司馬懿の凄さは魏の者達から警戒されてしまいます。魏を乗っ取るのではないかと懸念され、肩身の狭い思いをさせられてしまいます。それに不満を覚えた司馬懿はボケ老人のフリを行い、油断させ、その当時、魏の政権を握っていた、曹爽(そうそう)を謀反人に仕立て上げて、処刑してしまいます。その後の政権は司馬一族が取り仕切ります。
<呉>のその後
呉の孫権は戦は、苦手で呉の戦の勝利はほぼ大都督が導いてきました。周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜です。戦は苦手な孫権ですが、人を見る目は確かだったのでしょう。しかし、晩年は人を見る目が無くなり、駄目な部下を徴用し、政治は乱れます。更に追い打ちのように、息子を失い、更に後継者争いが勃発、、、終息しないために「二宮事件」跡目争いの息子を両成敗という、全く良い方向には、行かない結末で幕を閉じた、、、なんとか、呉を保っている状態。
<蜀>のその後
北伐で成果を挙げれず、姜維が跡を継ぎ行ったが、256年の段谷の戦いで大敗し、蜀漢の国力を疲弊させた。この時、蜀の黄皓が政治を乱し、皇帝の劉禅は遊び呆けていた。蜀漢を滅ぼす機会と見た司馬昭は鍾会・鄧艾ら20万の軍勢を派遣して、263年に成都を開城させ蜀を滅ぼした。ここに蜀は滅亡します。
⑩蜀の破滅→魏の崩壊→呉の破滅
蜀が滅亡し、魏は司馬懿の一族が禅譲を迫り、乗っ取ってしまいます。ここで魏も崩壊します。魏は崩壊し西晋が建国されます。残りの呉も風前の灯だったため、280年に滅ばされてしまいます。ここで蜀→魏→呉の順番で平定されて三国時代が終わります。
晋の時代になるのです!!
三国志の魅力は、優秀で優れた人間が多い事と脚色されているとはいえ、カッコいなと素直に感じさせてくれる所だと思います。
私は、ただゲームしている時は、魏の曹操が悪者で、蜀の劉備が正義なんだなーと思っていましたが、改めて見ていくと曹操は英雄だと思いました!!この時代においての曹操は臨機応変で素晴らしい逸材だと感じました。
若い頃と年齢を重ねてからでは、見方が変わりますので、皆さんも是非見直して見て下さい(^^♪
皆さんが好きな武将は誰ですか?
または好きな国はどこですか?
良かったらコメント頂ければ嬉しいです。
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