三国志(呉)続

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長くなり過ぎたので、呉の続きをしていきます。

前回は、孫堅→孫策→孫権の事と呉滅亡までを行いました。

今回は、他の呉のメンバーのご紹介

呉の面子

周瑜{大都督}

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名家の出身で幼き頃より孫策とは、仲が良い、孫家に対し大きな家を譲り家族ぐるみのお付き合いをしていた。孫堅が亡くなり、袁術の配下になっていた孫策の元に駆け付け孫策の元で戦に参戦した。その際、孫策もまた周瑜に対して、自分の出来る限りの最高の待遇を与えている事から心の底からの信頼を感じます。孫策は、荊州を手中に収めようと荊州攻めをする際に、二人の美人姉妹を手に入れる。姉の大橋は孫策に、妹の小橋は周瑜の嫁になり義兄弟になる。幼少から仲が良かった二人だったが、孫策が急死してしまう、、、

後継者の孫権を軽く見る者が多かったが、周瑜が率先して孫権を立てた事で周りの人間も孫権に従った。それほどまでに影響力のある人物であった。魯粛の推挙も行っている。

その後、赤壁の戦いが起こり、魏の曹操は圧倒的に数が多く、呉の者も降伏を勧める中周瑜は打ち破る自身があった。そのため赤壁の戦いは行われて見事に勝利を収めた。

赤壁の戦いの後荊州攻めを行いましたが、36歳の若さで亡くなっています。

主、孫権は皇帝に即位した際「周瑜がいなければ皇帝になれなかった」と嘆いています。

評価

  • 立派な風采をしていた。知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている。
  • 寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。しかし宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。

演義では、頭は良いが短気で思慮が浅いと言われて、諸葛亮の引き立て役にされていますが、実に有能な人物であったと思います。私は、歴史が好きなので忠義に厚い人は大好きです!!!周瑜の実力なら全然乗っ取りも出来たはずなのにしっかりと呉を支えたのは、2000年近く経った今でも非常に素敵な関係だと思えます。

魯粛{周瑜の次の大都督}

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魯粛は裕福な家庭で育った。裕福な家庭に生まれながら武芸や狩りなどの鍛錬を行い、貧しい者を助けるなど素晴らしい人物であった。周瑜が魯粛を訪ねた際、食料や資金援助を頼んだ。魯粛は2つの蔵の内1つを丸々あげるという大盤振る舞いを行った。これをきっかけに周瑜は魯粛と親交を深める。魯粛はその後、袁術の配下となるが、、、袁術の支離滅裂っぷりに嫌気がさして周瑜の元に身を寄せた。そこで、周瑜の推薦で孫権の元へ士官した。

孫権も最初の謁見で魯粛を気に入り重宝した。

その際魯粛は「漢の復興は難しいから、地盤をしっかり固めましょう!」と言います。これは、漢の復興ではなく、己で天下獲りしましょう!という事です。この言葉に孫権も言葉を濁します。内政面を指揮する張昭も何度も魯粛を咎めますが、、、孫権はそれでも魯粛を重宝しました。

赤壁の戦いの劉備との外交などを行い、曹操に降伏するか悩んでいた孫権に対して、応戦することを進言するという事を行っています。どちらかと言えば、穏健派で孫家と劉家が同盟を組むことを願っており、仲を取り持つような立ち位置です。赤壁で勝利を収めた後は、、、周瑜が若くして亡くなり、魯粛は大都督になります。荊州の事で揉めたりして孫と劉の連盟も揺らいできます。その後、結局荊州返還がままならぬままこの世を去ります。

魯粛は、

①天下二分の計(北に曹操、南に孫権)を提唱

②赤壁での曹操への抗戦の意志

③劉備に一時的に荊州を預ける

について孫権に評価されていますが、①、②は高評価、③は残念ながら失策と評価されています。欲が無く質素な生活を送っている事から非常に素晴らしい人材だと思います。政治家に欲しい人材ですねw

呂蒙{魯粛の後の大都督}

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呂蒙は貧しい家庭に生まれ、そんな状況を打開したくて、コソッと山賊討伐について行ったりしていた。そんな中、呂蒙を馬鹿にした役人を切り殺してしまう、、、その事が転機になって孫策に側近として取り立ててもらう。その後、各地で功績を挙げていった。ある日、主君である孫権に勉強を勧められる。呂蒙は貧しい生まれのため勉強が出来なかった、、、そんな呂蒙に孫権はきっと見識を高めて欲しくて言ったのだと思います。

「呉下の阿蒙=ごかのあもう」

意味としては、いつまで経っても進歩しない人の事を指す。

このように、常に馬鹿にされていた武勇一点呂蒙は、猛勉強を始めます。その甲斐あって非常に賢くなり、武勇と知勇を兼ね備えた武将になりました。

頼れる存在になった呂蒙は、呉の数々の戦で活躍をしていきます。荊州を守護していた関羽を討ち取るという大きな功績を挙げます。その際、関羽は魏の曹仁と対峙していましたが、後方の呂蒙を舐めていました。一応攻めてきたら知らせるように後方に配備はしていましたが、呂蒙の白衣作戦で突破されました。白衣とは、商人の恰好で近づいて油断を誘った。という作戦です。(三国天武の白衣呂蒙はここから来てるのでしょう)

まんまと関羽は油断を突かれて斬首されました。その後、呂蒙は体調を崩し亡くなってしましまいます。

演義ベースのドラマでは

関羽の呪いで殺された

関羽を捕らえるだけの予定だったが命令違反のため孫権に毒殺されたなどの話もあります。

評価としては、非常に勉強熱心で戦上手ですね。私は演義のイメージで短絡的で猪突猛進なイメージでした^^;全然違う見たいので興味ある方は調べて見て下さい。

陸遜

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陸家は呉でも有力豪族であったが父親が早世したための陸康(陸遜の従祖父)を頼る。その陸康の元では、袁術ともめて袁術配下の孫策に攻撃をされることになる。その際に、子供を陸遜に託し、呉へと避難する。その後21歳の時に孫策の弟、孫権に文官として仕官する。

孫権の元で反乱の鎮圧や人材補充などを行い、評価を高めていき、多々、献策を行った。その功績があり、関羽討伐でも呂蒙の補佐を行っている。陸遜が最も評価されたのは、夷陵の戦いで劉備軍を壊滅に追い込んだ事でしょう。何十万の兵士が火計により壊滅に追い込まれて、、、何年も苦労して集めたのが水の泡になってしまったのですから。

その後も戦は、続きますが、孫権の後継者争いである「二宮事件」によって投獄されたりして憤死したとあります。勿論、異説などあると思いますが、、、

陸遜は、非常にまじめなイメージです。

wikiより

正直な人物であり、自身を顧みず主君や国家へ忠義を尽くした。丁重で厳粛な性格であった。倹約家で足るを知る人物であり、彼が亡くなった時には家に余財は無かった(『建康実録』)。

呉まとめ

呉は確かに人材が少なく感じるが、個人のやらかし武将が少ない気がします。周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜はそれぞれ国のため、平和のために戦をしているような感じがします。逆に蜀軍は個人的に華のある武将が多いが、個性的で失敗が非常に多いともいます。例えば、傲慢代表関羽、酒乱張飛、山登り馬謖など列挙すればまだまだいる気がします。

呉は本当に良い国だと思いますが、自分からの侵攻をあまりせず、地盤形成のおかげで生き残った場所なんだと私は思います。あの時代で富国強兵は非常に重要ですからね^^

この時代は今のように車や飛行機が無いので移動に非常に時間が掛かりました。更に現在のように冷蔵庫やクーラーボックスがある訳では無いので食料の確保は現地調達なども多かったのでないでしょうか。そう考えると今は便利な世の中ですね^^

次回は魏を行いますので興味ある方は見て下さい^^

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