今回は三国志の勝ち組「魏」について書いていきます!!
悪役になりがちな魏ですが、私は、曹操大好きです!!最近w
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魏について
魏は「曹操」が主君で三国時代に最も強大な勢力でした。しかし、最初から強大だった訳ではありません。そんな魏を人物ごとに私なりに簡単に書いていきます。歴史なので、確実な情報ではない事はご了承下さい!
曹操
曹操は夏侯惇とは従妹である。元は夏侯氏とも言われている。それは、即ち、漢の劉邦に仕えた夏侯嬰の子孫ということである。なので、そこそこ良い身分である。そんな曹操は、黄巾の乱も参加して結果を出しています。その頃、最も権力を持っていたのは※十常侍※です。大将軍何進が十常侍殺害を企てます。しかし、何進は逆にやられてしまいます。それを袁紹が遂行して見事に十常侍を殺害します。これは、曹操にとっては出世コースから外れる事件になっています。十常侍殺害によっていち早く駆け付けた董卓が朝廷を支配する事になります。
ここで※十常侍※の説明
十常侍は朝廷内で権力を持つ者である。しかし、男性器を切除している。皇帝の妻などに手を出せないように去勢する代わりに権力を得る者達である。
董卓が朝廷を支配すると曹操は、逆に取り入って暗殺を企てます。しかし、失敗に終わり逃亡します。そこで親戚の家に身を隠すが、親戚が自分を売るかもしれないと思い一家を全員殺害します。この事件により同行していた陳宮が愛想を尽かし、尚且つ曹操が悪役と思われる所以になっています。(演義)
ここまででも結構曹操は濃ゆいですよねw
反董卓連合は董卓を討伐して董卓から朝廷を取り返すぞーが目標でした。曹操も参戦しますが、ほぼ身内だけで少数な軍でした。他にもたくさんの武将が集まったが自分の利益しか考えてないため壊滅してしまいます。その後、黒山軍の反乱鎮圧、黄巾軍の残党などの鎮圧を行い、大量に兵士が増加します。「青洲兵」と名付け大きく実力を伸ばした。
このように実力をつけている間に、董卓は、身内に殺害されてしまう(呂布)
安心もつかの間、自身の親を陶謙に殺されてしまいます。それに怒り心頭な曹操は大量虐殺を行い、徐州攻めを行います。しかし、その最中、自身の領地の兗州(えんしゅう)を呂布に攻められ、領地を多く失っています。この際に、夏侯惇や荀彧のおかげでなんとか本拠地を失わずに済みます!この時、徐州の陶謙は病死し劉備が代わりを行っている。
曹操は本拠地に戻り、呂布の攻撃に対してしっかり反撃を行い、兗州を取り戻しています。呂布は劉備の所に逃げる。
李傕(りかく)と郭汜(かくし)を知っていますか?
この二人は、董卓の配下です。董卓亡き後、献帝(天皇みたいな人)を誘拐?のような状態で朝廷を支配します。しかし、二人は仲が悪くなってしまいます。内戦が続きますが、李傕(りかく)は討伐され、三族皆殺しにされ、郭汜(かくし)は部下に裏切られて殺されました。
曹操(続)
そんな、李傕(りかく)と郭汜(かくし)から逃れた献帝を保護したのが曹操です。(荀彧と程昱が進言しました。)
天皇のような存在の献帝がいれば、全ての行いが正しくなります。それを曹操は利用しました。献帝が指示していると言えば、容易に劉備や孫権を呼び出す事が可能です。
ここから、曹操の快進撃は始まる!!!
荊州の張繍を攻めた際に、張済(張繍の親戚)の妻を妾にしようとしていたため、夜襲を掛けられる。その際、曹操を逃がそうとして、典韋と息子曹昂を失っている。これをきっかけに奥様にも離婚される、、、
曹操は人妻大好き!寝取り漢です。
その後、呂布を下邳城で水攻め、張繍は再び曹操に降伏した。このように、快進撃は続き、河北は曹操の領土になる。北がほぼ曹操の領土になり、袁紹との戦が始まる。
官渡の戦いが始まります。官渡の戦いでは、袁紹の方が兵士も多く勝っていました。しかし、曹操は兵糧庫を狙い、大逆転で勝利を収めます。元から袁紹は優柔不断な所が多いと演義などでは、言われています。その後、袁紹家は家督争いの末滅びます。
残り残党も片づけ、曹操は最も大きな勢力になりました。
敵は
(荊州の劉表)
(江東の孫権)
(益州の劉璋)
(漢中の張魯)
(関中の馬騰)
(土地なし劉備)
だけになりました。
まずは、荊州の劉表を倒しに行きます。劉表は、病死してしまい、息子は即曹操に降伏してしまいます。その際、劉備は荊州の端の方にある城(江夏)に駐屯します。そんな劉備をあの手この手で追い詰めますが、、、劉備は孫権に同盟を持ち掛けます。見事に同盟を組んだ孫劉連盟は、赤壁の戦いで見事に曹操を打ち破りました。曹操は命からがら逃げのびています。
数字の1の下が赤壁の戦いで数字の2は赤壁の戦いの敗北後の動きです。この戦闘により魏は荊州を孫劉連盟にほぼ取り返された!
その後は、富国強兵に努め、馬騰・馬超率いる涼州軍と戦闘し勝利を収めている。漢中に侵攻していくが、その際に従妹の夏侯淵を失う。漢中も劉備軍の攻撃を受け、占拠されて撤退、その隙に関羽も荊州から北の方に進撃する。于禁と龐徳(ホウトク)を派遣するも捕虜にされて状況は悪化した。そのため、呉の孫権に協力を求め、関羽を背後から襲わせた。これにより関羽を討伐。これにより、劉備は、呉に対して恨みを抱き夷陵の戦いに繋がる。魏は一息つくが、曹操自身が1年後位に亡くなっている。頭痛が多く脳腫瘍の説が多い。曹操は死が近づく際に「墓に金・銀を入れるな!墓も何か所も作れ」と命じています。今まで沢山の人を手に掛けてきたから墓を暴かれたくなくて言ったのでしょうね。
曹操の子供
曹昂
曹操の長男、母は劉夫人だが早く亡くなってしまって、丁夫人が面倒を見る。血のつながりは無いが、我が子のように育てた。父曹操が奇襲を掛けられた際、父を逃がすために戦い戦死してしまう。それを聞いた丁夫人は、二度と曹操の下に戻らなかったそうです。
不倫した挙句、息子のように育てた子が死んだら帰りたくないですよね><しかしこの時代に曹操に逆らうのは、度胸がありますねw
曹丕
曹操の次男、母が違うのでややこしいので次男とします。
曹操の後継者で魏の初代皇帝である。
あれ??曹操が初代皇帝じゃないの?って思う方も多いと思いますが、曹操は、献帝をトップに立てた状態で二番手である丞相(じょうしょう)という立場に留まっていました。その理由は、色々あるのでしょうが、丞相でも実質、全ての事を掌握出来ていたので必要なかったのではないでしょうか!
そんな曹操と違い献帝を退け自分が皇帝になる事で「漢400年の歴史」は途絶えます!
しかし
ここまでの状態になるのには、非常に長い道のりでした。
なぜか?というと兄弟が沢山いるからです。
曹丕自体は、剣術も騎射や文学にも精通していて、優秀です。けれども、めちゃくちゃ有能という訳ではなく、現代風に言うと「器用貧乏」という状態です。なので、曹操の中では、「曹丕」もしくは「曹植」のどちらか?という感じで悩んでいました。最終的には「曹丕」が選ばれ「魏の初代皇帝」になりますが、軍事や政治でも呉に遅れをとり、国を衰退させてしまった、、、40歳という若さで亡くなり、息子「曹叡」に託す。
なんでも、出来るが特化したものはなく、短気で器が小さいという評価がされている。
私も個人的には、曹操が優秀過ぎて、曹丕が可哀想に思えてしまう。曹操の息子ではなく、1武将の息子ならもっと活躍出来たのではないかと思います。
曹操が曹丕に残した言葉
「倉舒(曹沖)の死はわしにとっては大きな悲しみだが、お前にとっては喜びだ。何しろこれでお前がわしの後継者になれるのだからな」と語った。
曹丕は即位後に「兄の子脩(曹昂)が生きていても限界があっただろうが、弟の倉舒(曹沖)が生きていたなら私は主となって天下を治められなかっただろう」と述懐し、若くして世を去った兄・曹昂、弟・曹沖に対して劣等感を抱いていた」
早く死んだ兄と弟で非常に優秀な曹仲がいたら自分は後継者じゃなかったという非常に悲しいお話になっています。
曹植
詩の才能に秀でていたそのため、非常に曹操から寵愛を受けていた。そのためか、舐めた態度をして曹操を激怒させたり、酒が好きで行き過ぎた言動を行う事も多かった。曹丕と後継者争いをした後は、冷遇され続けて生涯を終えている。
詩のみしか出来ないと思っていましたが、10代の頃から戦場にも出ていたみたいです。しかし記述も少ないので評価しようもありませんが、後継者争いに勝っていたら、また違った魏の未来が広がっていたかもしれないですね。
曹彰
一言でいえば「脳筋」である。
剣術・馬術・弓術に優れた将軍であった。父、曹操からも学問を勧められるが、あまり勉強しなかったwそんな曹彰は何度も戦で功績を残すが、父、曹操が亡くなって後は、曹丕に警戒され冷遇されている。その後、急死している。小説などによっては、毒殺などの作品も存在する。
曹仲
最も曹操から寵愛を受けた。
学問好きで、聡明で心優しい人物であり、家臣からの信頼も非常に厚かった。そのため、曹操も幼いが次の後継者にしたいと思っていた。わずか、13歳という若さで亡くなってしまった。
曹仲が有名な理由は、曹操の息子だからだけではない、わずか5歳の時に像の重さを量り周囲を驚かせた。大人が思いつかない事を5歳の子が発見するという、末恐ろしいです。
だからこそ、曹仲が後継者になった未来が見てみたかったです。本当に悔やまれます。順調に成長したら、司馬懿に魏を乗っ取られることも無かったんだろうなーと思います。
今回は、長くなったので、曹操の息子たちにスポットを当ててみました。
次は、魏の家臣を書いていきます。
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