前回は曹操一族のお話をしました。なので、今回は、その曹操一族を支えた家臣のお話をしていきたいと思います。
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曹操の家臣
夏侯惇
漢を作った劉邦を支えた夏侯嬰の子孫!
隻眼で有名ですよね!戦場で弓で撃たれ、親に貰ったものだからという理由で目玉を食べたお話でお馴染みです!(有名な創作です)
夏侯惇は曹操の従弟になり、学問の師匠を侮辱された事に腹をたてて侮辱した者を切り殺した事で気性の荒い人物と言われるようになります。曹操が挙兵した時から、副将として従軍します。
数々の戦場に出て功績を残したが、逆に敗北も多かった。私達の知っている夏侯惇は武芸に秀でて凄く強いイメージですが、敗北も多く、捕虜になることもありました。
しかし、曹操からの信頼が厚く、いや、暑すぎる位の信頼を得ていた。寝室の出入りを許されたり、車に同乗させたりなど、他の者とは比べ物にならないほどと言われている。更に凄い事に曹操配下の武将の中で唯一、曹操と同じような身分にあった。
現代で言うと
天皇が<献帝>
総理大臣<曹操>
県知事<夏侯惇><孫権><劉備>
市長・町長<州を収める者達>
のように、曹操が与えた官位ではなく、朝廷から貰った官位を持っている状態なのです。
他の魏の武将は、曹操の配下という位置づけであります。曹操が夏侯惇を配下という立場にしないという「不臣の礼(配下として扱わない特別待遇)だということです!!
夏侯惇は真面目で軍を進める際にも師を迎え勉強をしたり、お金を得たら人に配るという欲の無い人物だったそうです。墓にも剣が一振りしか残って無かったそうです。
まーイメージとは、違ってましたが、めちゃくちゃかっこいい人ですね!!!
他の者には私財を与え、曹操を支え続けた忠臣!カッコいいです!
典韋
堂々とした体格で怪力!武器も長刀や双戟を得意とした。リアル三國無双wですねw
夏侯惇に見いだされて、曹操の配下となる。度々功績を挙げ、曹操の信頼を得たが、曹操が不倫している間に謀反が起こり、曹操を逃がすために、敵に向かって行き、死亡した。典韋はその際に、何人もの敵を倒したが、弓矢を何本も受け絶命した。
典韋が亡くなったのを聞いた曹操は我が子が亡くなったことより、悲しみ、敵から遺体を取り戻す軍を結成したほどであった。その後、典韋の子は曹操に厚遇された。
非常に短い活躍ですが、三國無双になるくらいの活躍をしてますね♪
許チョ
体格が良く、身長も180㎝位あったそうです。
曹操に仕えてからは、身辺警護を常に行うようになりました。
潼関の戦いでも窮地に陥った曹操を見事に守り切っています。その後、馬超との話し合いの時に、睨みをきかせて馬超の暗殺を防いでいます。
曹操が亡くなった後は、深く悲しみました。曹丕→曹叡と仕えた後に亡くなりました。
許チョは戦場でこそ活躍の記述が少ないが、それは、曹操の護衛を常に行っていたからでしょう。曹操の元に素晴らしい臣下がいるのは、曹操の魅力なのでしょう!!その期待に魏の武将は見事に応えている感じがします。
荀彧
荀彧は非常に優秀な政治家である。自分の故郷が攻められると予感していた荀彧は、故郷から離れた。その際に、袁紹と知り合い、兄弟や同郷の者は袁紹に仕官したが、荀彧は「袁紹は大業を成せない」と判断し、仕官しなかった。
その後、曹操と出会い、曹操に仕官した。曹操も「我が子房である」と喜んだ。漢を建国した劉邦の軍師「張良=子房」である。
曹操が徐州に攻め込んでいる際に、呂布が本拠地である兗州(えんしゅう)を攻めてきたが、荀彧は夏侯惇ら武将に指示を出し3城とも死守している。献帝が董卓の部下の所から脱出した時には、救出することを献策している。その後は、曹操は事ある毎に荀彧に相談して物事を決めるようになる。
袁紹の勢力が拡大する中、曹操はこのままでは、圧倒的に不利になる事が不安になってきていた。しかし、荀彧は、他の諸侯の現状や性格を見て曹操の短所と長所の話をして説明を行い曹操を励ました。
袁紹と曹操が本格的に戦を始める時には、袁紹陣営の人物の弱点を説明し、後の行動を予測した。荀彧の言ったとおりに事が進んだ。また、この官渡の戦いでは、兵糧が尽き、弱気になった曹操は撤退を考えていたが、荀彧は、撤退は勧めず奇策を用いる事を促した。これにより袁紹を滅ぼし、北の領土を手中に収めた。
その後も、曹操に意見を求められ、何度も功績を挙げている。
こんなに大活躍で曹操を支えている荀彧ですが、悲しい最期を遂げます。
荀彧は、朝廷を大事にしたいと思っていました。なので、曹操に仕えてはいるけど、その上司は献帝だよ!!!というスタンスでした。しかし、他の曹操の部下は、曹操様こそ王になるべきだ!!と思っていました。
そこの考え方の違いで、曹操との関係に亀裂が生じます。
ある日、体調を崩した荀彧にお見舞いの為に曹操が用意した箱が送られてきました。箱の中身はカラでした。カラの箱は用済みという解釈にも取れます。そのため荀彧は服毒自殺という最期を遂げています。
ここまで、曹操に尽くしたのに、最後に歯向かっただけでこのような最後になるのは、悲しいですね。私は、荀彧の事は、知りませんでしたが、ドラマで見て凄いファンになりました。優秀過ぎて驚きです。最後まで漢の復興を願っていたのでしょうね。
皆さんも荀彧を詳しく調べて見て下さい!!
張遼
張遼は丁原→董卓→呂布→曹操の順に仕えています。
呂布が処刑される時に同じように捕縛されていたが、曹操が気に入り部下にした。
曹操軍に入ってからは様々な功績を挙げる。
張遼といえば、合肥の戦いです!!
何万人という孫権軍に対してたった800騎で攻め、孫権軍を追い込みました。江東では「張遼が来るぞ!張遼がくるぞ!と言えば子供が泣き止んだ」このことから「泣く子も黙る」という言葉が出来た由来になっています。
曹操在世時に最も功績があった将軍として、張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃の五人を一つの巻に収録しており、張遼はその筆頭に位置付けられている。
捕虜から大抜擢され魏の礎を気づいた猛将ですね♪
曹仁
若い頃から、武芸に秀でていた。気性が荒かったが曹操の配下となってからは、自分を律して、諸将の手本となるような振る舞いを見せる。曹操の従弟になる。
いくつもの戦場で功績を挙げていて曹操の天下統一に非常に貢献している人物である。しかし、戦場に赴くためか、演義では、引き立て役のような扱いがされている。実際は、あんまり負けた戦は無く勝ち戦が多い。
夏侯惇は豪気で戦に強いイメージでしたが、実際は負け戦が多かった。曹仁は負け戦が多いイメージだったが、演義では負けが多く引き立て役になっているが、実際は、勝利数が多く有能な武将なのが分かる。
于禁
于禁は曹操の元でいくつもの功績を残し、張遼・徐晃・夏侯惇などと並ぶほどの地位になった。性格としては、豪気で威厳があり、一目置かれる存在であったが、あまりにも法律などに厳しく兵や民からの人望が薄い人だったようです。
それでも、曹操には高く評価されていました。
しかし于禁の最期は可哀想な結末を迎えます。
関羽との戦い(樊城の戦い)で水攻めを受け大打撃を被ってしまいます。その際に、捕縛されてしまいます。ホウトクと于禁が捕らえられますが、ホウトクは処刑を望みます。しかし、于禁は命乞いをし、生きながらえてしまいます。
その事に曹操は深く悲しんだそうです。忠義を貫いたホウトクに比べ、降伏して命を助けられた于禁に対して、ホウトクに及ばないか、、、と嘆いたそうです。
その後、孫権も関羽を攻撃し、于禁の身柄は孫権の元へ行きます。
その後、魏に帰った際は、曹操は亡くなっており、息子が魏王になっていました。
曹丕は表向きは于禁をねぎらいましたが、曹操の墓参りに行かせた際に、関羽に敗れ、ホウトクは処刑され、命乞いをする于禁の絵が描いてありました。
それをきっかけに病になり、死んだと言われています。
最期が悪かっただけで非常に優秀な人物なだけに可哀想だと思います。
まだまだ魅力的な武将がいるのですが、長くなるのでこの辺でw
次は番外武将も書きたいですねw
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