三国志(呉)

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前回は蜀編をしました!今回は魏編かと思ったのですが、魏は絶対長い、、、なので先に呉の方をやっていきたいと思います。

皆さんは(呉)にどんなイメージがありますか?

私は、呉はあんまり有名な人いないんじゃない?っていう位のイメージでしたw三國無双でも呉の武将は可愛い女の子しか使わないという感じで知ってるのも周瑜位でしたw

今回は、そんなイメージ(私の勝手な)の呉について書いていきます。

呉について

呉は江東の地であり孫家が治める土地である。しかし、最初からではない!

孫堅

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孫堅は各地で功績を上げ成り上がった!始めは、警察のような職に就く!その後、黄巾の乱に参加し賊を討伐する事により、軍功を上げていった!黄巾の乱が収まった後は、董卓が帝をたてて好き放題な政治を行う。それを止めるため孫堅は董卓連合軍に加入し戦いに挑む、、、戦ではいくつもの功績をあげた。董卓も追い詰められ遷都を行い、事実上の勝利となった。だが、董卓がまだ生きている中、問題が発生する、、、董卓連合でも力を持つ袁術と袁紹が対立し、董卓連合は瓦解した。その後、袁紹と袁術が揉めて、袁術の指示で荊州の劉表を攻めたが劉表の部下黄祖に殺されてしまう、、、、そして、孫堅軍1000人は袁術軍に吸収される。

ここで英雄「孫堅」の人生は幕を閉じる。

人物評

Wikiから抜粋

陳寿の評 「勇敢にして剛毅であり、己の力のみを頼りとして身を立て、張温に董卓を討つ事を薦め、董卓によって暴かれた洛陽の山陵を修復した。忠義と勇壮さを備えた烈士である」「行動が軽はずみで、結果を出す事を急ぐあまりに性急であった。そうした様が、自らを死に至らしめ、失敗する原因となった」

裴松之の評 「同時代、義をもって立った人々の中で、最も忠烈の志があった」

公孫瓚の「董卓を蹴散らし、御陵や霊廟を掃き清めた。その功績は計り知れない」

<私の考え>

企業も初代が難しく大変、、、孫堅は短い生涯だったが、後の呉の礎を築いた英雄だと思います。陳寿の書いてある通りな人物な気がする。良く言えば行動力がある。悪く言えば、思慮が浅く短絡的人物な気がします。

小覇王<孫策>

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父孫堅が亡くなり失意の中、孫策は立ち上がる、19歳で袁術軍の将軍となる。袁術軍に吸収されていた孫堅軍の1000人程の返還を求めた。その中には、呉の礎を築いた、朱治黄蓋韓当程普などの主だった面子が存在した。孫策は、江東で独立を狙っていたが、同様に袁術は警戒していた。その後、江東の支配を行い、袁術軍からの離脱を宣言。しかし、あまりに勢いよく江東の支配を行ったため反感を買ってしまい、暗殺されて孫策の生涯は幕を閉じる。

人物評

Wikiから抜粋

郭嘉は「孫策は新たに江東を併呑したばかりですが、誅殺されたのはみな英雄豪傑であり、人の死力を得られる者たちでありました。しかし孫策は軽率で備えも無く、百万の軍兵があろうとも原野を独りで歩いているのと異なりません。もし刺客を潜ませていたならば、ただ一人を敵とするだけであります。こうしたことから私が観るに、必ずや匹夫の手で死ぬことでしょう」と評している。

陳寿は「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。しかし、孫策は軽佻果躁(=軽弾みで思慮が足りぬ)だった(=お山の大将気質が抜けない、田舎の粗暴な山猿)ので、身を滅ぼしてしまった」と評している。

<私の考え>

個人的に素晴らしい実力を持っているが、残念ながらしっかりとした整備をせずに江東を支配してしまったのがいけなかった。しっかりとした人間関係や法関係の整備をしていればきっと三国志の歴史は大きく変動したと思う。

孫権

三国天武] 大帝孫権(星7孫権)は強い?使い方・評価・獲得方法まとめ ...

本来は孫策の子供が跡を継ぐのだが、、、、幼く不可能だった事と孫策が弟の孫権に託したため!

孫策は「兵を率いて戦場に駆け、天下の争いに与するような事は、お前は俺のようにはできぬが、才能ある者を用い、江東を保っていく事については、お前の方が上だ」という言葉を残している。

19歳で孫権は江東の主となりました。

父や兄が亡くなり、まだ19歳の孫権に軍を率いるもしくは統率するのは、非常に困難でした。そこで政治は「張昭」軍事は「周瑜」に任せ、自分も積極的に人材登用に力を入れていきます。徐々に主として認められますが、、、、軍事や政治なんでも出来る周瑜の方が遥かな信頼を得ていました。きっとそこでも孫権は面白くなかったでしょう。しかし、呉を存続させるために周瑜を立てて呉の地盤を固めていきます。

強大な力を持った<魏>VS劉備達という図になりますが、、、、

劉備達は孫権に同盟を組んで魏を討たないかと話を持ち掛けます。そこで魏と戦うべきではないと唱える臣下が多かったですが、、、孫権は一蹴し同盟を組んで魏討伐を行います。それが「赤壁の戦い」です。赤壁の戦いで大勝し魏軍は敗走しました。

その後は、劉備達と同盟を結んでいますがいざこざが絶えません、、、その理由は、荊州の権利です。荊州は魏と呉の間の土地で重要な拠点です!!

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緑の部分は後の蜀ですが、荊州を呉から借りて、後々攻めて蜀の領土にしていきます。

蜀の部分を獲得した際に、荊州に残って城を守っていたのは、名将関羽でした。関羽は孫権の事をめちゃくちゃ舐め切っています。それが災いを招きます。その態度と傲慢さから魏と呉から挟みうちにされて荊州と関羽の首を取られてしまいます。

それに激高した劉備は、呉に侵攻しますが、孫権が任命した新都督「陸遜」の火計に掛かり「夷陵の戦い」で大敗。見事勝利した呉は、また蜀と同盟を結びました。

ん?攻められたのに同盟の結びなおし?って思う方もいると思いますが、この夷陵の戦いは弔い合戦いわば八つ当たりのようなものです。パーセンテージで言うと魏50%蜀が25%呉が25%位だったので同盟して魏に立ち向かうのが普通でした。しかし劉備は弱い呉を倒し、吸収し勢力拡大をして魏に立ち向かおうとしたのです。ただの弔い合戦なのか?それとも勢力拡大のために弱い方を先に片づけ後顧の憂いを取り除こうとしたのか?分かりません。皆さんはどちらを選びますか?私は後者です。その理由は後程言います!

この夷陵の戦いの後は、あんまり詳しく書いている漫画も少なく、ほぼ大筋は終わりました。この後は、北伐が開始されますが、演義ではほぼ呉は、何も活躍無く終わります。一番最後に滅びるのは呉ですが、、、

晩年がすさまじく悪かった孫権

孫権は、戦上手や武力に優れたなんて事は、無いですが、人材を見抜く力に優れ、政治能力も優れていました。曹操・劉備と肩を並べていたため、少々過小評価されるかもしれませんが非常にバランス的に能力が高かった人物です。だが、そんな盟主な孫権ですが、曹操や劉備が亡くなり、油断したのか、暴政を働くようになります。重用した者が最悪で次々と家臣の粛清を行います。しかし、元からの腹心達のおかげで事なきをえますが、次に自分の跡継ぎに選んでいた子供が亡くなり歯車が狂います。

他の息子の後継者争いが始まり、、、孫権は後継者争いに対して喧嘩両成敗で二人とも粛清してしまいます。残ったのは、まだ7歳の(孫亮)子でした。当然、7歳の子にはどうすることも出来ずに呉は衰退します。孫権は、81歳で亡くなりました。

このように孫権は若くして、英雄である、曹操や劉備と肩を並べて戦ってきましたが、晩年が悪く少々残念な事になりました。それでも、呉は若い人材が少なく武将も乏しいイメージでしたが、乱世を生き抜いたのは素晴らしいと感じました。

夷陵の戦いについて

劉備は、関羽や張飛の弔い合戦で「夷陵の戦い」を仕掛けたとなっていますが、私個人の意見ですが、負けなければそれなりの良い判断では、無いかと思いました。考え方もまた十人十色でその時曹操は、亡くなっており、後継者の曹丕は戦が上手でない事を考えると、漁夫の利を狙って南に攻める事は、無いと考えるためです。逆に魏に進行すれば、呉からの襲撃も予想出来るし、勝ちさえすれば作戦としては、良かったのでは無いかと思います。

次は呉の武将解説します^^ノ

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